常に状況判断すること
デザイナーから技術翻訳に転進して水を得た魚になって一気に突進した。この時期、順調に卒業して大会社に就職してまだ平のサラリーマンだった連中に一気に追いつき、追い越してしまっただろう。こういうのをホントのレースというか、試合という。30代の半ばだった。
技術翻訳に必要な勉強もガンガンやった。仕事に必用な勉強だからものすごくやる気になる。会社に行く前の朝、4時とかの早朝に英語や技術の勉強をやったんだ。通勤電車の中では勿論、英語のペーパーバックを必ず読む。KEIO出身の部長からペーパーバックを100冊読まないとダメと言われたので、兎に角、100冊目標にガンガン、読む。
学生時代の目標が定まっていない勉強とは違って、自分はこういう勉強の方が合っているのだと感じる。サラリーマン時代は、この通勤電車の書斎が最も効果を発揮したと思う。毎日、一時間30分くらいは絶対に勉強時間が確保できたからね。
最初の銀座の会社からもっと条件の良い西新橋にある業界大手の技術翻訳会社にトレードされた。この時代はまさにこの世の春だった。会社はものすごい勢いで成長していたし、翻訳セクションでは、翻訳者が30人くらい社内にいて、外国人のチェッカーも10人位いた。会話も英語と日本語が乱れ飛んでいた。それは、ちょっとした外国の会社のような雰囲気だったかもしれない。
ある程度の6階立てくらいのビルが全部、その会社だった。営業部隊も企画部隊も大勢いた。今でも時々、そこに行ってみるが、兵どもの夢の跡って感傷に浸る。
僕も社長から気に入られて、どんどん提案を聞いてもらえて、翻訳セクションのパーティとか、社内旅行を企画して、ちょっとした宴会部長だった。そういう面が本当の自分だと思っている。
仕事先の大会社の工場も出張でよく見せてもらったのもこの時期だ。広島まで出張してマツダの車の製造ラインを全部見せてもらった。先方の生産部長の案内付きでだよ。東芝機械とかの工場も見せてもらったし、富士通やIBMなどの生産現場も見せてもらったし、話を聞けた。多分、現在では、こんな機会は皆無だろう。この時期にはそういうことが出来たのだ。多分、市場原理主義が入り込んできていない時期だったから可能だったんだろうな。まだバブルの前だから、まさに日本株式会社がトップギアを入れていた時期だ。
この会社がこのまま順調に発展していれば現在では、知識産業の大会社になっていただろう。しかし、運命はそういうようには動かなかった。
プラザ合意を受けた円高ショックが日本を襲った。ちょうど、今の経済状態と似ているかもしれない。新規事業に投資しつつある急成長していたこの会社のバックの銀行が一斉に手を引いてしまったのだ。
あっという間の出来事だった。それなりに意気揚々とした雰囲気を味わっていた段階から、一気に何にもない状態に急転直下だった。労働組合を結成した者もいれば、職業安定所に足を運んでみる必用もあったし、数百人いた会社員が、あちこちの別の会社に集団で身売りされたり、あっという間にばらばらになってしまった。人間本来の闘争の縮図が表れる。
これは社長を始め、経営陣の責任というより、今回のリーマンなどに代表されるようにまさに経済の流れが一気に変わったために起こったのだと思う。新聞記事にもなったし、類似の倒産が頻発した。
それから、僕の翻訳人生もまたいろいろな波が押し寄せてきては、波に飲み込まれておぼれそうになったり、上手く波に乗れたりの連続だ。そこは、直近のことだから書くのはやめておこう。
別に教訓めいたことを言う年でもないが、自分に一番、合ったこと発見していると強いということだ。僕の友達でも、自分を発見しているやつはそれなりにずっと順調にやっている。
若い時から板場のたたき上げからずっと料理人をやっている奴がいるが、ビルの中に自分の店を持っているし、不動産業で東京のある市のぬしのようになっている奴もいるし、映画監督をやっている奴も、業界紙の会社を経営しているやつもいるし、印刷会社をやっている奴もいる。皆、裸一貫でよく頑張っている。
自分が一番好きなスポーツの種目を発見している人は絶対に強い。そのスポーツ種目の技術と考え方を磨くべし。それが、現実の社会では大きな力になる。
実は上に書いた時期にはまだ僕はサッカーに本格的に出会っていなかった。まだ、空手の時期だった。サッカーを理解するようになって僕の世界に対する見方は劇的に変化したんだ。
僕の目標は、ヨーロッパのサッカークラブのプロの選手になることだ(マジで????)。イングランド代表の右サイドのアンダートンという選手は好きだった。それほど有名ではないが、陽気で結構、決める時は決めるからね。 それから、選手の次は、ライカールトやファンバステンみたいになれたら最高だよね。全部、年下だけどね。 ![]()
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